研究・出版

冷戦構造が終結した1990年代の初頭にはグローバリゼーションの波が押し寄せてきた。国際資本の膨張とともに労働者の国際的移動も激しくなった。

1996年以降ロシアと中国の間では戦略的パートナーシップがうたわれて久しい。

これはアメリカの一極支配に対する中露の多極支配を象徴しているように思われてきた。

このような国際情勢の中で、中露間の労働力移動はどのようにされているのか、とりわけ両国間をまたぐ移動労働が互恵関係的に展開されているのか、あるいは何か不均衡なきしみがあるのかをさぐってみる。

近年の中国の目覚ましい発展により、国境地帯の両国間移動労働者のありようもかなり変化しており、移動労働者の中に際立った階層化の兆候もみられるようになった。

両国が資本主義的市場原理を追求している当然といえば当然すぎる帰結だ。そこで実際の国境を挟んだ中露の,黒河ーヴラゴヴェシチエンスク、ポグラニチヌイなどで働く労働者の動向や、今年APEC開催予定のウラジオストック近郊で働く外国人労働者、サハリンにおけるアジア系労働者などの動向をさぐり、背後に隠れているいくつかの問題点を浮き彫りにしていく。

新天地で大金を稼いだサクセスストーリも興味をひくが、格差と貧困にあえぎ、差別を受けている移動労働者の実態を単に統計上の数字としてのみとらえるのではなく、顔のある移動労働者としてとらえていきたい。

島嶼問題と日本人の意識

ここでは、島嶼問題の一つとして北方領土➡︎クリール諸島と日本人の意識について論じてみたい。

1日本人の歴史認識と、変わらぬ西高東低観
2経済のアジアシフトに伴う物流の変化
3 21世紀における北方領土に対する日本人の対処の仕方
等、を述べてみる。
1
まず外国人にとって不可解なのは日本人の一元的な西高東低の見方であろう。
あるシンガポール大学の学長の講演で日本の政策立案者や為政者は
明治時代から東洋より、西洋に目を向ける脱亜入欧を説いていると不満げであった。その典型として福澤諭吉の脱亜論がとりあげられた。またこの学長は日本が犯している地政学的誤りは21世紀にいまだ19―20世紀的な地政学に固執し、21世紀の地政学を思い描けない事だと喝破している。この脱亜論の勧めで日本人は西欧の機械文明を取り入れ二百年間で急成長してきたのである。しかし19世紀は欧州の文化を取り入れ、20世紀はアメリカから先進文化を取り入れてきたが、同様に、21世紀はアジアの時代であるという先見性がなければ文明から取り残されると同様の警告を発しているのが、かのエズラ・ボーゲルの言でもある。(China in the 1990s, in Ezra F Vogel (Ed.The Age of Uncertainty Harvard 2004 P.254)

現代の日本人は西高東低というこの一元的な認知度はいまだに払拭できないでいる。
この外国認知の構造的側面は欧米上位、ブラジル中位、中国、韓国低位、ロシア最低位という見方である。まずこの点を頭に入れてここ200年間の地理的条件をみると、日本は常に西方を見て、東をなおざりにしてきた。
サハリン統治時代をみてもその統治の仕方は杜撰なもので、木材、漁業のような即換金可能な資源に注目し、収奪するが、それ以上ではなかった。
以上の点を考慮しながら、直近の内閣府の世論調査を見てみたい。
下記に提示したようにこれは調査とは名ばかり、全員に調査と称してあらかじめ刷り込みをしていることが文言により明らかである。
以下参考のため掲載しておく。
全員の方に(【資料】を提示して、調査対象者によく読んでもらってから、以下の質問を行う。)
平成30年10月
1 北方領土の認知度について

【資料】
[ 北方領土は、北海道本島の北東洋上に位置する歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島から成る我が国固有の領土です。第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)に、ソ連が当時有効であった
日ソ中立条約を無視して対日参戦し、北方領土を占拠し、ロシアとなった現在もなお法的根拠なく占拠し続けています。 この北方領土に関する問題の解決は日露関係最大の懸案となっており、政府は、北方四島の帰属の問題を解決してロシアと平和条約を締結するという一貫した基本方針の下、強い意志を持ってロシア との間で外交交渉を行っています。また、外交交渉を支える国民世論の結集と高揚を図るため、官民 を挙げて参加型のイベントを始めとする各種の広報啓発活動に取り組んでいます。
その一方、戦後73年が経ち元島民を始めとする関係者の高齢化が進むとともに、国民全体で見て も戦後生まれ世代が大多数となる中、今後、この問題をいかに若い世代に引き継いでいくかが大きな 課題となっています。]

と、まず、調査をする前に北方領土について一定の先行認識を吹き込んでそれから調査をするという狡猾なやり方をしている。これは
いわば先行教育と認知度をしらべあげ、為政者の敗戦の責任を棚上げにし、領土を取り上げられた経緯の教育と返還運動の一翼を無辜の民に押し付け、強要するものである。
1)北方領土の認知度
・現状について、よく知っている ・12.9%
現状について、ある程度知っている ・52.6%
北方領土について聞いたことはあるが、現状までは知らない 31.3%
北方領土について全く聞いたことがない 1.0%

わからない
問1 あなたは、北方領土をロシアが法的根拠なく占拠し続けている現状についてどの程度知っ ていますか。この中から1つだけお答えください。 (資料)
ア 現状についてよくしってる。12.9%
イ 現状についてある程度知ってる。52.6%
ウ 北方領土について聞いたことはあるが現状まで知らない。
ア、イ、ウと回答した人は何から情報をえたのか?
➡︎テレビ、ラジオ 88.4%
新聞 58.3%
ホームページ、インターネット 18.8%
学校の授業 25.4%

ア 北方領土について何で知ったか
更問 (「現状について、よく知っている」「現状について、ある程度知っている」「北方領土につ いて聞いたことはあるが、現状までは知らない」と答えた方(1,608 人)に
あなたは、北方領土について何から情報を得ましたか。この中からいくつでもあげてくだ さい。(複数回答)
テレビ・ラジオ 新 聞 88.4%
学校の授業 58.3%
ホームページやインターネットのニュース
本や雑誌などの出版物 25.4%
家 族 ・ 知 人 8.5%

その他二項目めとしては、北方領土返還のための参加型運動をしたいが、あなたはそれに参加する気があるか。と極めて押し付けがましい問を発している。また参加したくない場合は、いかなる理由かなどと尋問をしているようである。これらの問答は煩雑になるのでここでは省くが、北方領土返還要求運動にあまり参加したくない理由に政治活動に巻き込まれたくないという理由が目立っており、一般国民がなぜか敏感に政治色を読み取っていることがわかる。一般国民にはことの実態は隠されているので理解し難いであろうが、日本における対ソ、対露の関係は極めて政治的な関係に括られて考えられることが多いからである。例えば、日本で取り沙汰されるのは「ロシアは約束を破る国だ。日ソ中立条約を破った。」という常套文句だ。しかし、アメリカは当時「プロジェクト・フラ」という作戦のもと当時のソ連軍に軍事訓練をし、上陸作戦を成功させるために艦船まで貸与した。スターリンは日ソ中立条約は終了一年まえに通告すれば延長されないという規定に着目、その規定通り条約破棄を通告したもようである。(Russell, Richard A. (1997). Project Hula: Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan. Washington, D.C.: Naval Historical Center. ISBN 0-945274-35-1.)
この通告前後に実はアメリカの隠然たる力がうごいたようである。
当時のアメリカ大統領ルーズベルトが1945年のヤルタ密約で独ソ戦三ヶ月以内に日本攻略を要求していたのである。
1956年日ソ共同宣言で平和条約締結後にソ連側の善意として歯舞・色丹の返還を行うことが記されているが、日本は米と1960年「日米安保条約」締結、アメリカの従属国家となった。こうして日本は戦後一貫してアメリカの経済・文化攻略の下、植民地的国家に成り下がったわけである。こうして見てくるとアメリカの巧みなダブルスタンダードぶりがよくみえてくる。国民にはロシアのことを約束破りでシベリア抑留でいじめられたという反ロシアの感情が底流にながれているのだ。一般国民も実はロシアに対する認識は極めて薄い。
ほとんどの教育機関では英米の語学が中心的に教えられ、露語は希少科目といわれる。以上の事実を国民にきちんと教えることこそが、
ロシアと平和条約を結ぼうとしている日本にとって必要なことである。またラブロフ外相にもきっちり言われたことだが、「日本は戦争の結果を認めていない唯一の国」ということはキモにめいじておきたい。つまり、国連憲章第107条の敵国条項で、連合国敵国のファシズムの国々が国連加盟国はいつでも軍事制裁を課することができるというものだ。1995年条項削除が可決されたが、改正にいたらずである。上記の重大な事実関係をこそきっちり国民に伝達することこそが国家の任務ではないのか。現政権はそのような重大な事実も国民に伝達せず。やたらF35Aやイージスアショアを数千億かけて購入し、改憲によって国民を戦場に駆り立てようとしている。今一番重要なことは隣国と友好的に対話し、交流することだ。

次に経済のアジアシフトと物流の変化の点である。まず近年的確に認識すべきは国際社会との相関性である。例えば1990年対米貿易の比率が27.4%で、2000年に25.0%を占めた比重が10年の間に12.7%に低下している意味をよみとるべきである。1990年の貿易比重をみると対中国―3.5%、大中華圏―13.7%
アジアー30.0%で、2010年の世界不況の中で、日本は中国アジア依存の深化をふかめている。例えば上海協力機構との貿易比重は27.5%にのぼっている。
また2018年度の最新の貿易統計によれば、日本の貿易収支は1.2兆円の赤字になっている。さらにIMFの2019年4月の統計を見ると、2018年、一人あたりのGDPではもはやアジアの先頭ではないことがわかる。2018年日本は一人あたりのGDPで世界ではなんと26位になっている。

日本は2018年 一人あたりのGDPはもはやアジアの先頭ではない。

一人あたりのGDP
シンガポール6.4香港 4.9 日本 3.9 ブルネイ3.2 韓国3.1
このような貿易構造のアジアシフトに伴う物流の変化は太平洋側と日本海側を比較すると顕著である。最近目立つのは太平洋側港湾の空洞化がみられる。物流が日本海側にシフトされていることが貨物量の伸び率で明白になってきている。
日本海沿海13港 物流は68.1% に近年のぼり、全国平均16.9%を大きく上回っている。このことは、世界港湾ランキングを見れば、日本の太平洋側の港湾の没落ぶりがはっきりわかる。

世界港湾ランキング をみると、
1上海
2シンガポール
3深圳
4寧波
5香港
6釜山

28 東京
53 横浜
54 神戸

外貿コンテナ貨物量の伸び率( 2005年➡︎2017年)
日本海沿海13港物流状況 日本海沿海13港平均 68.1%
酒田325.0% 舞鶴142.7% 金沢114.3%浜田92.7%秋田69.5%境49.8%直江津38.2%博多36.6%伏木富山34.7%

この日本海港湾の貨物量の増加と並んで北東アジアの動きも見逃せない。
ロシア政府はカザフスタンとの国境地域からベラルーシに至る有料自動車道路の建設を承認した。1兆円を超すと見られている総工費は中国を含む民間からの出資で賄われるようだが、ロシア政府には最低限の収入(約600億円)の保証が求められている。
 中国とロシアは2015年に一帯一路(BRI/帯路構想)をユーラシア経済連合(アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギスタン、ロシア)と連結させると宣言したが、この計画に合致する。
 ロシアには2011年夏の段階で経済的なつながりを朝鮮半島へ延ばす計画があり、ドミトリ・メドベージェフ首相がシベリアで朝鮮の最高指導者だった故金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案した。
 このプランが実行されれば、シベリア横断鉄道を延長させ、朝鮮半島を縦断、釜山までつなげることが可能な壮大な鉄道プランが実現可能となる。当然、鉄道と並行してエネルギー資源を輸送するパイプラインの建設も想定されている。
 このプランは、中国のBRI(帯路構想)と結びついている。中国と北朝鮮の国境近くの丹東には一帯一路用の鉄道駅開設も計画されているようである。朝鮮半島の問題が解決されれば、釜山からドイツのハンブルグまで鉄道や道路でつながることになる。また期せずして海路としては、既述の世界港湾ランキングの第6位に釜山が躍り出ていることも注目に値する。日本の日本海海路の物量の増加(既述)のみならずこれは日本にとっても大変メリットがある。というのもアメリカへの従属度を低下させることを意味する。これは日本の支配層がアングロ・サクソンの支配グループに従属することで自らの地位と富を維持してきたことには大きなダメージになる。この間、日本はアメリカの意向に沿う形で中国との関係を悪化させたが、現在その軌道修正しているようだが、韓国との半導体原料輸出問題でいささか手間取っている。

以上、日本人の前世紀的地政学観と認知度が、経済のアジアシフトによっていかにその内実が覆されて来ているかが如実にわかるような実例数字をあげてきた。第二でも詳述してきたが、21世紀の日本は地政学的には大きなメリットをもっているといえよう。このような地政学上のメリット生かし、北方領土地方の
港湾の共同建設プロジェクトを組み、財政的、技術的援助をすべきだ。この
利益は日本の環日本海の物流運搬、交易に大いに役立つし、この流れが一帯一路にも繋がれば、露、中、韓、朝鮮、日本、モンゴルにとっても利益になる。
日本人はとかく狭い利権や利益に拘泥しがちであるが、一昨年、安倍晋三が提案していたようなイチゴの栽培とか、せせこましいことを言ってはナンセンスだ。風光明媚な景色を生かした北方領土地帯の一大自然公園と先進的保養医療施設を共同で立ち上げることぐらい考えるべきである。このような一大共同プロジェクトを立ち上げる過程で、日本人は過去の戦争責任を噛み締め、21世紀の新しい地政学を学ぶことができるはずだ。
本来、この地方の住人はアイヌ、ネネツ、など北方先住民族の神聖なる地なのである。チエホフの「サハリン島」を読めば、その様子は如実にわかる。

コロンタイとロシアの現代女性

ソヴェート政権期における女性のおかれた問題点は、ソヴェート憲法で保障されている形式的男女平等と実社会で認知されている状況との間の落差をいかに埋めるかであった。男女平等という名のもとに女性は労働市場にかり出され、家庭にあっては、家事労働にも従事させられ、男性に比べて文字どうり二重の労働負担を負わされてきた。具体的には1 9 8 9年3月7日に文化省次官シルコワの演説によれば、「女性の家事労働は過4 0時間に達しているとのことである。それに対して男性は僅か6時間にすぎず、この原因とし(て)は、物不足による買い物の行列がさらに長くなっていることと、家事の機械化が先進国の5倍遅れている」ことを挙げている。ここで疑問に思うのはなぜ女性達は家事労働を男性達にも分担させなかったという点である。社会主義革命の草創期にコロンタイ自身もこの点で相当悩やんだということが、自伝的作品とも言うべき『ヴァシリーサ・マルイギナ』の中にも出てくるので次に引用する。(注1)

ヴァシリーサは女性の経済的自立と政治的自由の獲得、女性労働者の母性の保護をめざして常に女性達の味方であり、彼女等の利益を守る代弁者として日夜励むのである。彼女はかつて市会議員選挙の候補者に選ばれるなど工場の女性達からも大きな支持を得ていた。彼女自身、子供時代から工場で働いているので、いつでも彼らの言い分も分かるし、要求もよく分かったのである。しかしある時男の同志達はこうも非難したのである。

「女達の問題は後回しにしたらどうかな? 今は緊急なる問題が山ほどあるではないですか!」
ヴァシリーサはこの同志達の意見にいきりたって、くってかかりながら言った。
「『女達の』問題が、どうしてほかの問題より小さいのですか? みんながそんな風に考えがちだから、『時代遅れの女』が生まれるのです。もし女性がいなかったら革命はできません。女こそすべてです。女がくよくよ考えたり、夫にぐずぐず言っているから男も人生を無益にすごすのです。『女を獲得することは、事を半ば成し遂げる』ことなのです。」とヴァシリーサは堂々と自己の見解をこのように述べている。

コロンタイは「新しい女性とは、まず第一に自立した労働単位であり、その人の労働が私的な家族経営への奉仕ではなく、社会に役だち、かつ必要とされる労働にむけられるのである」 (注2)

と定義ず(づ)けているが、当時の現実との落差がいかばかり大きかったかは『ヴァシリーサ・マルイギナ』のなかの男女役割分担の葛藤を鋭く暴くことによって、浮き彫りにしている。
ヴァシリーサの夫が党のなかで重要な地位を占めるようになり、妻であるヴアシリーサの肩に客の接待や主婦としての仕事がどっと押し寄せる。ヴァシリーサは家庭の外では家事の軽減のために共同の炊事場や食堂や託児所を建設してもらうために駆けずりまわりながら、家庭に戻ると、相変わらず昔から続いている古い夫と妻の役割分担を批判なく背負ってしまうのである。夫に「腹が減った。メシはまだか?」などといわしめているところに当時の革命のもつリアリティを窺わせている。
この二人の夫婦の関係は革命後70有余年を過ぎたソ連における男女のありようを検証する場合、極めて示唆に富んだものになっている。(注2上掲)かつて社会主義政権末期にペレストロイカやグラースノスチなどいくつかの変革のための波が押し寄せてきたにもかかわらず、女性独自の自立的な解放運動が起きなかった大きな理由は、私見ではやはりマルクス主義的な女性解放論の呪縛による事が大であるという考えは今も変わらない。(注3上掲)
従来ベーベルや、エンゲルスは女性の解放は社会制度の変革のあとで達成されると主張し、女性独自の解放のための闘いは単なる「ブルジョア的なもくろみ」 (注4)にすぎないと断定したが、制度がいくら変わっても人間の意識変革が進められなければ、いつまでたっても女性の真の解放は進められないのは自明の理なのである。制度の変革のあとではなくて、同時に意識の変革も強力に押し進めなければならなかったのである。女性の意識的自立や、家事労働の社会化を叫んだコロンタイですら、当時このマルクス的な女性解放論の欠陥については考えが及ばなかったであろうと推察され得る。むしろコロンタイは女性の自立や家事の社会化などに対して十分な注意を払おうとしなかった同志達を憤激しながらも、ぎりぎりのところで社会民主労働党内に踏みとどまり、階級革命の女性解放に及ぼした積極的な意義を次のように擁護すらしている。概して産業革命や、世界戦争の影響で女性労働者の急速な増加は家族生活や、ブルジョア国家の女性達の一般的な生活の様式としきたりに、未ぞうの変化をもたらしたが、それにもまして、「10月革命が、然るべき重みのある言葉を発しなかったならば、おそらくそれ以上に女性解放の過程は進まなかったに違いない。10月革命は女性を新たに評価する事に役立ち、社会的な有効な単位としての女性に対する見解を確固たるものとし、明らかにしたのである。―省略― ところが、この現象をさけがたい歴史的事実として認めること、新しい女性のタイプの形成は新しい労働社会の形成をめざす全般的な進歩と関連していると理解することであるが、ブルジョアジーはそれを行うことができないし、やりたくないのである。 10月革命がなかったなら、自分で稼ぐ女性は一時的な現象であり、女性の場所は家族のなかにあり、生活の糧を得る夫の陰にあるという見解が今まで支配していたであろう。」 (注5)

と10月革命を高く評価しながらも、マルクス的な女性解放論の欠陥を無意識的にいくつかの著作でカバーしようと努力している。上述のヴァシリーサの見解もしかり、女の問題を後回しに緊急な問題をかたず(づ)けようとするのは何事ぞとヴァシリーサにどならしめている。時折しも臨時政権ケレンスキーから革命政権に移行しつつある時であり、ヴァシリーサ即ち、コロンタイのこの見解は当を得たものであると言える。この点にかんしては、女性解放の大綱ではマルクスやエンゲルスの考えとは違いないものの、男性のレーニンも種々に心を砕き、次のように述べている。 「社会主義社会の建設そのものは、われわれが、女性の完全な労働をかちとって、細々した人を愚鈍にする、非生産的な【家事】労働から解放された女性と一緒に新しい仕事にとりかかるときはじめてはじまるであろう。・・・(注 レーニン全集第30巻)」
ソヴェート政権時代の社会主義建設の揺藍期にはこのようなレーニンの柔軟な思考や、コロンタイの積極的な社会活動もあったにもかかわらず、70有余年を経たソ連社会では全く硬直化した男女役割分担の意識がはびこっていた。それはやはり、意識革命の不徹底さとスターリンの台頭による家庭を生産の基礎単位とするための伝統的な家父長的家庭強化策に因るものであろう。かくして生産の効率的追求のために、女性は再び家事労働と生産活動の二重のくびきに繋がれる状態になってしまったのである。
現代ロシア人女性も延々と背負っているこの二重負担の構造を間接的に評して、 「脱社会主義化の時代には、当該社会の持つ家父長制規範が露呈してくる。」(注6)と主張する論者もあるが、要はソヴェート政権が崩壊したから、家父長制規範が露呈されてきたのではなくて、ロシアでは革命以前から家父長制的な規範が延々と温存されてきたというのが偽らざる実情であろう。
さて現代におけるロシア人女性の状況はどうなのかと言えば、体制転換のひずみを一身に受けていると言っても過言ではない状況におかれている。もちろんかつてソ連時代にロシアの女性がおかれている立場を正直にかたり、社会を批判することは反対制の熔印を押される事であり、タブーであった。その状況はサミズダート(地下出版)でのみ可能であった時代から見ると隔世の感がある。一部とは言え、才能のある女性達は小規模ながら起業家としてどんどん活躍しており、現代ロシア文学の領域では、ニーナ・サドゥール(1950‐)、ワレーリヤ・ナールビコワ(1958‐)、リュドミーラ・ペトルーシェフスカヤ(1939‐)、オリガ・セダコーワ(1949‐)などが注目の作品を世に送り出しており、さながら女性作家の時代といってもよかろう。しかしこれらの人々はあくまで選ばれた女性達であることに注意する必要があるであろう。 97年7月10日付きの独立新聞(注7)によれば、ロシアにおける現代の女性は国民経済の半分を担い、平均的教育程度は男性を上回っているにも関わらず、
1 )失業率の割合が極めて男性に比較して高いこと
2)女性の平均賃金は男性の三分の二にしかならない(非公式では三分の一と言われている。)
3)女性は新しく進出してきた小規模のビジネスにはきわめて活動的であるが、大企業や大生産部門においては決定権をもっていないこと
4)育児や家事の負担は依然として昔と変わりないこと
5)女性の数は選挙人のなかでは優勢で、選挙においては男性に比べてはるかに積極的であるにも関わらず、政権機構のなかでの女性の参加はきわめて少ない。
これらのことを列挙して、女性差別はますます増大するばかりであろうと予測し、現在女性がおかれている広範な諸状況はほとんど80年近くの間、独立した女性自身の運動が欠落してきた事に部分的には起因しているとし、女性の利益のための女性の代表部が、国家機構に半ば統制されてきたと結論ず(づ)けている。
新聞はさらに女性の利益を守り、民主主義的原理の継承のために第二回全ロシア女性大会の開催を報じている。言うまでもなく、第一回の大会は1908年に開かれ、コロンタイはこの大会にむけて45人のメンバーを組織した。しかし、この大会では脱階級的な女性センターの設立が提案され、コロンタイとその同調者達は自立した別グループを組織しようとしたが、コロンタイが官憲に追われていたためそのもくろみは実現しなかった。当時ロシア社会民主労働党の内部ではコロンタイとその同調者達をフェミニストであると決めつけ、コロンタイが女性の問題に比重を起(置)きすぎると告発したものもいた。官憲に追われていたコロンタイは大会を中途で放棄せざるを得ず、以後政治亡命の日々が始まったのである。 90年ぶりの大会がどのようなものになるか、予断を許さないが、体制転換の過渡期のなかで今や女性の意識も大きな変換を迫られている事は事実であろう。


1) 『魔女の系譜』杉山秀子著 亜紀書房1990年167-179p
2 )
3) 『魔女の系譜』既出
4 )
5 )
6) 『東アジアの家父長制 ジェンダーの比較社会学』瀬地山角著 勤草書房1996年 83p
7 )


 

コロンタイ著者杉山秀子

もう一つの革命・著者杉山秀子

コロンタイと日本・著者杉山秀子



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