ロシア沿海州事情 ー 研究こぼれ話(1)
研究こぼれ話(1)
一昨年ロシア沿海地方のロシア人の意識と生活状況を調べるためにおよそ12日間にわたってウラジオストック、ウスリースク、ヴラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクを廻った。この調査旅行で特に注視したのは沿海州の移民と著しい経済発展の中における変化するロシア人の意識であった。アムール川を境にしてロシアと中国は向き合っているが、とりわけ黒河(アムール川の中国読み)とヴラゴヴェシチェンスクは二つの国がアムール川を境にして向き合い、小型の船で20分くらいの間隔にある目と鼻の先の距離にある。1870年代、チエホフがヴラゴヴェシチェンスクを訪れた時にはまだ何件かの売春宿があり、チエホフはそこで日本人女性の売春婦と一時をすごしたという。しかもその女性の細やかな心遣いに大変満足したと覚書にかかれていることがソヴェート政権崩壊後に発禁だった文書の公開で明らかになり、チエホフ研究者を驚愕させた。その後チエホフは1870年代末にはサハリン島に渡り、かの有名な『サハリン島』を書いている。
ヴラゴヴェシチェンスクと言えば、私は最果ての荒んだ感じの売春宿が数件,木枯らしの中に立たずんでいる殺風景な光景を頭に思い描いていたが、21世紀のヴラゴヴェシチェンスクはとても美しいロシア風の町に生まれ変わっていた。広い道路に美しい街路樹、整備された家並が連なり、思わずこんなど田舎に何ときれいな町がたたずんでいるかのというのが第一印象であった。もともとアムール川の北部は清に属していたが、1858年のアイグン条約(璦琿条約)、1860年の北京条約によってロシア領となり、アムール・コサック軍の根拠地となった。1900年に義和団の乱が起こり、清国人がたてこもったが、ロシア軍は聞くところによると3000人の清国人を虐殺したと言われている。このような歴史的経緯があるために、未だに中国人の中には、このヴラゴヴェシチェンスクは中国のものだ、中国に返還をと言う声も内内に聞かれるのである。7~8年前までは中国人がこの町に不法に侵入してきて居座り、商才に長けた中国人はロシア人を押しのけ、商売を手広く広げるので、ぼんやりしたロシア人には堪らないのだ。そのうち段々雑貨商から手を広げる中国人はホテルやレストランまで経営しだし、ボーイや雑役にロシア人を鼻で使うことになる。ロシア人にとって見れば、人の国に押しかけて何でドンドン稼ぎまくり中国人に使われなければならないのか、段々怒りが心頭にくる。するとその不満が刃傷沙汰にまでなり殺傷事件が後を絶たなくなるのである。これを見た役所
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