9月 8, 2014

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ロシア沿海州事情 -研究こぼれ話 (3)

 

 

 

研究こぼれ話 (3)

 

 

毎月二万ルーブリ余分にあれば大学にいけると言う話まで相談した。そして通訳か何かになって日本を見聞したいのだという。それは言いねと言うとその場合には離婚しないとだめだと言い出すのでこっちが驚いてしまう。4時間も待ち時間のある間、彼は自分が兵士としてチェチェンに召集され、人殺しをしたということで、二回も英雄賞をもらったとのこと、その記念のバッジと証明書もみせてくれ、いかにロシア人と付き合うか、その付き合い方まで伝授してくれるのだ。彼の考えだと、ロシア人と一番懇ろになるにはこれだと一指し指を喉のところで丸めてはじくのだ。例のウオッカを飲むときのロシア人特有のしぐさだ。「それをやればトコトンよく知ることが出来るんだ。ロシア語なんかくそ食らえ~というのだ。」ほ~と純粋ロシア人とは角度の違うところからの意見に感心した。とにかく話せば話すほどテンションが上がってくるので、離婚でもされると困るので、翌日ヴラゴに着いてアムール越えをするときに会うということで、約束は曖昧なままにわざとしておいた。彼の話からまとめると、彼はチェチェンに出兵させられて二度も英雄賞を貰ったにもかかわらず、その報酬は微々たる物で不満足。察するにベトナム戦の時の黒人と同じで、最前線に立たされるが、その処遇は悪く差別されていると言う不満と同質のものを感じた。危険な仕事なのに彼のようにきっかいな顔したー白人ではない浅黒い(ロシア語ではスムーグリーという)人間―ロシア社会の中では伝統的には肌の差別はないが、中国人とロシア人との合いの子という区別はあるのかもしれない。そういう人間が純血種のロシア人と異なる処遇を受けるのもむべなるかなという感想をもった。周囲を見回して、薄々感じ取っている処遇や学歴のない不遇感は37歳の男にはひしひしと感ぜられたのであろう。一介の旅人のサジェスチョンで離婚でもされると大事なので翌日の約束はあえてしなかった。それが不満なのか、その後電話をかけても応答なしだった。それでいいのだと今でも思っている。広いロシアには彼のような人間は無数にいることだろう。ひょっとした運命や出会いのなせるわざだ。

次の場合は中国人の移民の周さんの場合である。中国東北から仕事でウラジオストックに居ついてもう20年になる。最初は小さな雑貨の行商をしていたが、小銭を貯めて現在のロシア人の奥さんとスーパーで知り合い結婚し、一女の父親である。彼は蓄財に蓄財を重ね、ウラジオでは家賃のとても高い中心部のアパートの一階に広々 (続)

 

 

 

 

 

 

 

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9月 8, 2014

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ロシア沿海州事情 -研究こぼれ話 (2)

 

 

研究こぼれ話 (2)続

 

~は厳しく取締りを始め中国人の営業活動も制限を設けるなどし始めたので、一部の中国人を除き、現在はその刃傷沙汰は沈静化したという。

刃傷沙汰を引き起こすような中国人の一団は今や、シベリア鉄道の沿線にあるエカチェリンブルグに移動し大きなマフイアまがいの一大勢力として闇の世界に君臨しているそうだ。(ハルピンの経済学者の話)黒龍江省からの移民中国人にきいてみると、ロシア人はちっとも働かないのだという。自分たちが食うや食わずで一生懸命汗水たらして働き、5~6日で済ます仕事量をロシア人はチンタラ、チンタラ10日間くらいかけなければ終わらないとのことである。

「別にいいんだろ。彼らは金持ちだから」と言うのが黒龍江省の中国人たちの感想である。それはロシア人が怠慢と言うよりそういう作風が身についているのだからしかたがないのだ。東洋人に比べれば、不器用で仕事は時間がかかるのはしかたがないかもしれないのだ。

中国人は確かに勤勉だ。ヴラゴヴェシチェンスクの街中を歩くと、何件も中華料理店を見かける。経営者は中国人できびきび働いている。来るのは大食漢のロシア人ばかりで結構散財しているのだろう。

私がたまたまシベリア鉄道の発着駅ウラジオストックで知り合ったユーリー・ミハイロフ(仮名)氏は中国人とロシア人の間に出来た混血の人であった。風貌はチェチェン人のような半分アラビア風のどこかエキゾチックな顔つきで痩せぎすの眼光鋭い感じの人であった。父親はハルピンからこの地に渡り、農業を営み、母親は地元のロシア人であった。ユーリー氏は年に何回かはハルピンの祖父の家に行くが、祖父とは中国語で話すが、中国語は全く書けないとか言っていた。彼は専門学校は出ていたが手に技術はなく、現在はタクシードライバーをして稼ぎ、奥さんはウクライナ人でスーパーの臨時店員をして家計補助、中一の娘が一人、生活は豊かではないが、それなりの小市民生活を営んでいる。がもっと専門職につき、一度札幌に言った経験から是非東京を見たいというのだ。ウラジオストックの汽車待ちの長い時間、古びた駅舎のベンチに座って彼の身の上話をじっくり聞いた。人間としてもっと学歴をつけ、異なる世界を見聞し、人生の幅を広げたいと言うのが彼の願いだ。色々相談に乗ってやり

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9月 8, 2014

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ロシア沿海州事情 ー 研究こぼれ話(1)

 

 

研究こぼれ話(1)

 

 

一昨年ロシア沿海地方のロシア人の意識と生活状況を調べるためにおよそ12日間にわたってウラジオストック、ウスリースク、ヴラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクを廻った。この調査旅行で特に注視したのは沿海州の移民と著しい経済発展の中における変化するロシア人の意識であった。アムール川を境にしてロシアと中国は向き合っているが、とりわけ黒河(アムール川の中国読み)とヴラゴヴェシチェンスクは二つの国がアムール川を境にして向き合い、小型の船で20分くらいの間隔にある目と鼻の先の距離にある。1870年代、チエホフがヴラゴヴェシチェンスクを訪れた時にはまだ何件かの売春宿があり、チエホフはそこで日本人女性の売春婦と一時をすごしたという。しかもその女性の細やかな心遣いに大変満足したと覚書にかかれていることがソヴェート政権崩壊後に発禁だった文書の公開で明らかになり、チエホフ研究者を驚愕させた。その後チエホフは1870年代末にはサハリン島に渡り、かの有名な『サハリン島』を書いている。

ヴラゴヴェシチェンスクと言えば、私は最果ての荒んだ感じの売春宿が数件,木枯らしの中に立たずんでいる殺風景な光景を頭に思い描いていたが、21世紀のヴラゴヴェシチェンスクはとても美しいロシア風の町に生まれ変わっていた。広い道路に美しい街路樹、整備された家並が連なり、思わずこんなど田舎に何ときれいな町がたたずんでいるかのというのが第一印象であった。もともとアムール川の北部はに属していたが、1858年アイグン条約(璦琿条約)、1860年北京条約によってロシア領となり、アムール・コサック軍の根拠地となった。1900年に義和団の乱が起こり、清国人がたてこもったが、ロシア軍は聞くところによると3000人の清国人を虐殺したと言われている。このような歴史的経緯があるために、未だに中国人の中には、このヴラゴヴェシチェンスクは中国のものだ、中国に返還をと言う声も内内に聞かれるのである。7~8年前までは中国人がこの町に不法に侵入してきて居座り、商才に長けた中国人はロシア人を押しのけ、商売を手広く広げるので、ぼんやりしたロシア人には堪らないのだ。そのうち段々雑貨商から手を広げる中国人はホテルやレストランまで経営しだし、ボーイや雑役にロシア人を鼻で使うことになる。ロシア人にとって見れば、人の国に押しかけて何でドンドン稼ぎまくり中国人に使われなければならないのか、段々怒りが心頭にくる。するとその不満が刃傷沙汰にまでなり殺傷事件が後を絶たなくなるのである。これを見た役所

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