Hashima – Brutal History and the Most Haunted Island on Earth
AndreVltchek is philosopher, novelist, filmmaker and investigative journalist. He’s a creator of Vltchek’s World in Word and Images, and a writer that penned a number of books, including The Great October Socialist Revolution. He writes especially for the online magazine “New Eastern Outlook.”
journal-neo.org/2018/08/07/has… #society #easternasia #japan
軍艦島、この呼称は日本人にとっては幽霊島として忘れ去りたい島だ。
だが、第二次大戦中に日本の軍国主義の犠牲になった国々、とりわけ
朝鮮、中国の人々には決して忘れない軍国日本の象徴のような島だ。
この島は三菱財閥所有で海底深く石炭採掘場があり、1970代頃まで採炭されて
いたようだ。狭い島内には労働者用の丈の高い共同住宅がひしめきあっていたが
今は幽霊がでそうな島になり、島全体がずたずたになった幽霊軍艦船といっても
過言ではない。そんな日本人の記憶から取り残された軍艦島に作家のアンドレ・ヴイ
チュク氏が足を運び、軍艦島と日本人の心の中に巣食うタブーと、臭いものには蓋を
し、見て見ないふりをし、ひたすら周囲に同調しようとする精神風土を鋭く観察し、
以下で紹介するルポに批判的にまとめているのでここに引用し、紹介する。
ガイドの態度など、忌まわしいものだが、これが日常的にみられる光景で、違和感ないが、
読者はどうおもわれるか?
抄訳: 長崎からタグ船で30分のところにある、はしまー軍艦島として知られるー島を知っているでしょうか。今はオンラインで申し込みすれば、米ドルで40ドル払い、軍艦島案内事務所とか、その他の会社のぴかぴかした小船に乗ればいけます。
そうすれば、棄てられたお化けのような残骸ーまるで沈没したような船ー島のことーにいきつくでしょう。
その島の回りを一度回り、船から降りて、フェンスが張られた小道をあるきます。ガイドさんは客にスナップ写真をとらせてくれますよ。
でもそれだけのこと。道を外れて右や左に歩いていってはいけないのです。グループの前も歩けません。後ろで、もたもたしてもダメです。
そして挑むような質問はだめです。ガイドは客の気をそらさぬようによく訓練されています。ガイドは島がいかに不吉で過去に人をいかに震え上がらせたかをとくとくとしゃべります。
ガイドの顔からはしたり顔の笑いが消えません。
でも彼らの書かれた規則と不文律に逆らえば、彼らはたちどころにあなたのところに飛んできて、大きな声で叱るんです。急にガイドは荒々しくなります。
彼らは何を恐れているのか。彼らは何を隠しているのか?この島で一体何がされていたのか。
過去の本当の歴史はあなたに決して伝わりません。それは第二次世界大戦のことです。日本はいまだにそれが伝わるのを拒絶しているのです。
注意深く準備された英語の説明を聞く外人やあらかじめ準備された日本人用のガイドさんは島の地理についてこと細かく無数のデテールをかぞえあげ、過去の歴史を異論の余地のないほど事細かに説明するが、肝心の第二次世界大戦時の朝鮮人、中国人たちが強制労働を強いられた恐怖については微塵もかたらないのです。
2015年の7月6日のガーディアン紙が報じている。
ユネスコは第二次大戦の前後の公式に認定された朝鮮人の強制労働の20以上の就業場面を世界遺産に登録することを決定した。
明治時代(1868-1912)の23枚のサイトは日本人の主張する封建主義から近代的工業に貢献したと称する採掘業と
造船業を含んでいる。
しかしながら、南朝鮮はもしも、日本が朝鮮支配時代の1910年から1945年の植民地時代に軍艦島で石炭採掘の強制労働を強いられた
6万人の労働者の事実をはっきり叙述しなければ、世界遺産の登録には反対だと表明した。
反対は中国(PRC)からも出た。
強制労働と東京のそれを否定する頑固な反論はユネスコの登録を遅れさせた。
しかし2015年日本は意見を譲り、派遣団はユネスコに以下のように表明した。
”日本は自分の意志に反して強制的に連行され、1940年代に過酷な労働を強いられた多くの朝鮮人がいたことを留意する準備があると表明。“
こうして軍艦島は世界遺産に登録されたのである。その交換として南朝鮮と中国は日本が第二次大戦中過酷な強制労働に従事したことに光を当て微細な点にいたるまで説明することを期待したのである。しかし、あらゆる他の暗い歴史の事例と同じくその取引には応じなかったのである。世界遺産の登録には応じたが、その見返りは何もはたさなかった。
この5月私は長崎に3日滞在し、オーストリアの左翼歴史家のジョフリー・グンを訪ねた。
何年間も日本とそれに関連したアジアに関する数千の疑問を探るためにこの町によく来ている。
過去の長崎は、大いなる日本文化とキリスト教徒の排斥があった。望むと望まぬとにかかわらず、オランダ商人とその居住、生き生きした中国人のマイノリティがいた。しかし、ここで、軍艦が造船され、占領した土地から多くの奴隷労働者が連れ込まれ、またここは第二次戦大戦の終わりには、原子爆弾が落とされたところでもあるのだ。
県立長崎博物館の屋根から見えるのはこの港湾都市はいまだに第二次大戦の遺物に縁どられている。水辺には巨大なクレーンがあり、ユネスコの世界遺産の別の工業遺産があり、そのクレーンは三菱重工の造船部のものだ。”公式的には、日本は軍国ではない。”とわたしは皮肉を込めて言った。”でも、みろよ!湾の反対側のドックでは沢山の戦闘用の船が停泊している”
”ラッキーだな。”とジョフはいった。”あれはちょうど入ってきたばかりだ。””ドックは昔は極めて重要だった。軍艦島の石炭は三菱が所有していた。(軍艦島の海底採掘場は有名だった。)石炭を掘り、それから最大規模の軍艦を造った。”
夜、我々は日本の政府と日本人が過去の非を認めたがらないことを議論した。
70年たった今でもこれらの問題はタブーだ。中国人皆殺しや朝鮮人に対する極悪な罪を認めたがらないことなどを話した。
過去のことが取りざたされると、鄭重なことで有名な日本人が急にうろたえたり、攻撃的になったりするのだ。
2015年日本は文字通り、ユネスコをないがしろにした。協力金を定期的に怠った。理由は国連教育、科学文化エージェントが1937年の日本による南京虐殺の資料を世界メモリープログラムにリストアップしたからだ。基金は送金されなかった。メッセージは明確にされたのにもかかわらず。日本によるこの過去の大罪にたいする頑固な拒絶は 西側、とりわけ米国とのがんじがらめの抱擁をもたらしたのだ。そのことのために、ますます北アジアの潜在的友好国とはかい離していった。
第二次大戦後、アメリカによる極東裁判は明らかにほんのわずかの個人を罰するもので、一方では、産業、ビジネス、政治形態などがその独自的形式に発達し、それはそれで西欧の利益に奉仕したのだ。裁判の後で日本はアジア太平洋地域には積極的に西側に参加することを許された。日本は野蛮な朝鮮戦争では顕著な役割を果たし、西欧は数百万の朝鮮人を虐殺した。
”現代日本人は外交ポリシーをもっていない。”とかつて東京を基点にして働いていたアイルランドの学者で政治アナリストのダヴィッド・マックニールが言っていた。”日本はアメリカの言うことに忠実に従うのだ。同じことを、国際問題でもメディアは踏襲する。”
ダヴィッドは日本人が歴史に対する態度に対しては幻想なく厳しいものであった。
”日本人は教科書を書き直す。日本人は第二次大戦をスキップし、それに費やすのはたったの8頁のみなのさ。
ナショナリズムが頭をむくげている。日本のメディアには自己検閲がみられ、政府はいわゆるオレンジブックという
ガイドラインを発行しているんだ。人に伝染しやすいものをどのようにあつかうか、あるいは歴史に関するものはどう
扱うかとかいうたぐいのものだ。ライターや通訳にはインストラックションがあるくらいだ。例えば、決して南京虐殺
という言葉の使用はご法度とか。外国の専門家に聞かれたときのみ可能だとか。あるいは靖国神社という言葉はそれに
対立して異論のある場合には使用不可。また第二次大戦中の”従軍慰安婦”もご法度だ。”
日本が過去を無視すればするほど、過去の犠牲者である中国や朝鮮を嫌いになっていくのだ。ピューセンターの世論調査によると2017年、83%の人が中国が嫌いという意見だ。もちろん朝鮮がよりいいわけでもない。両方の国ー中国と北朝鮮は明らかに日本から遠い存在であり、経済特に生活程度に関しては北朝鮮の場合は遅れている。東京の反応はますます西欧に近ずき、一方二つの共産国―中国、北朝鮮に対してはますます攻撃的な態度をとっているのだ。
しかし、軍艦島にもどると、あなたは金を払って船に乗った。最初から、船が出る前からあなたはサムライ精神と長崎の地域そのものから恐ろしいプロパガンダをじゃんじゃん浴びているのだ。
そこには絶えずコントロールがあり、出発する間際からコントロールを受けているのだ。あなたは席から立ちあがると、すぐに誰かが近ずき、どこに行かれるんですか?お席をかえたいのですか?いいえ、ここは座れません。” ガイドはおっそろしく荒々しい態度だ。その話す英語は幼稚だが、あらゆる規則を守る態度はファンダメンタリストそのものだ。
そして年とった爺さんは明らかにここでは規則順守のプロパガンディストで絶えず、マイクロフォンで物事を分類したがり、彼のしぐさはすぐに人をうんざりさせる動詞でまくしたてられるのだ。反芻するひまなんかあるものか、思い出す時間もなく、感ずることもできず、一人になって真面目な質問をさせる余裕を与えないのだ。
彼が止まるといつでも、安手のビデオがスクリーンに登場し、キリンの広告がおめみえするのだ。
数千人の人びとを奴隷として働かせ、女性を性奴隷にした場所に船は向かっている。しかし、サーカスは進行中だ。全く繰り返しもなく。
島について、私はグループについていくのを拒否した。私は大きな声を聴くのを避けて後ろに後ずさった。もちろん、二人のガイドが私を群れに戻そうとした。
私は写真をとりながら、彼らを無視した。
彼らは攻撃的になった。一人は叫んだ。”ここは日本だ。我々の規則に従え!”
私は写真を撮り続けた。
私はここでは好まれないようだ。
私の旅の理由はシンプルだ。
日本政府が中国や朝鮮の事実に関連してユネスコの件についてまだ拘泥しているかどうか、強制労働がなされたことが思い出されるような事象が残っているかどうか、を確認したかったのである。
私はそのような種類のものは残されず、インフォメーションも共通の思いでもないことがわかった。
長崎に戻り、私は過去を説明している冊子を求めた。しかしそのような冊子はなかった。その島のおぜん立てをした連中はそのような頭はなかった。
のちに、翌日グン教授は私を中国や朝鮮に対してなしたテロを想起させる、朝鮮人が組織している地域の私設博物館に連れて行ってくれた。
ついにそこでこの世で”最もオゾマシイ島”の真実がみつかったのである。一人でもそのちっちゃな博物館を見つけられれば・・・・
軍艦島ーそれは遠くからは強力な破壊者に似ている。背の高い建物に縁どられ、それは今や窓もドアもない遺物だ。
数千の強制と非強制からなる採掘労働者が深い採掘場に降りて働くところであった。軍艦島はたくさんの人が生き、死んでいった島だ。
とても神秘的でユニークな島だ。それなりに美しいが象徴的で恐ろしい島だ。